プルートゥ

アトムを下敷にしているだけあり、基本的なテーマは人間とロボットが織りなすヒューマンドラマ。
作中、旅行代理店のロボット店員が、「失礼ですがお客様ご夫婦共ロボットでいらっしゃいますね?」と問う。ということは、だ。深読みするならば、人間とロボットの夫婦も或いは存在する、そんな世界の物語。

そして、アトムがそうであるように、「心」をも持つロボットが演じることにより逆に、人間とは何であるかをより深くえぐりだしている。

モンブランというロボットの死を悼んで人が涙を流す。
ロビーというロボット巡査の妻のロボット(ビジュアル的には教育テレビの理科の時間に出て来そうな勢い)は、夫の死を悼む。(特筆すべきは、表情を作りようもないこの妻をもって、哀しみの表情を表現した浦沢直樹の力量!)

これはもう、人間ではないか。死を悼み、愛を持つモノを人と呼ばないならば、一体何をもって人は人たる得るのか。


ノース2号のエピソードを読んでいて、電車の中で涙ぐんでしまった。

僕はプログラマだ。プログラマ以外の人には理解して頂けないとは思うのだが、プログラマがプログラムを評するとき、「美しさ」は非常に大きなウェイトを占める。
例えばマネジメントや経営を専門とする方、プログラムを使うことはあっても作ることはない方にはおそらく理解しかねる世界であろうが、プログラムというものはその美しさにおいて、純然たる価値の序列がある。

だからこそ、盲目のスランプ音楽家の、「上達だと!? お前達、機械の上達なんてのはより正確に弾けるようになったぐらいのものだ!!」とのセリフにはとてつもない共感を覚えてしまう。
プログラマなればこそ、美しさを評価するアルゴリズムなど自分には記述できないことを認識しているのだ。そしてそのアルゴリズムは人だけが持ち得たものだ。僕は神など信じないが、或いは神のみが作り給い得るものだと言い替えてもよい。
だから、たとえもっともらしく人間のように振舞うロボットがいたとして、おそらく僕もこの盲目の音楽家と同じリアクションを取る。

しかし、美を理解し、人を愛し、それが故 人を救いすらするロボットならば話は別だろう。やはりこれはもう、本質的に人間と呼び得るものだ。


先が楽しみなプルートゥだが、6体のロボットの内訳はおそらくモンブラン、ゲジヒト、ノース2号、ブランド、アトムとあと一体だろう。とすると意外に短篇なのか。
うーん。もっと長く楽しみたいものだ。

PLUTO (1) (ビッグコミックス)

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